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408 竹島資料

もう次から次へと堰を切ったように情報が寄せられている。
朝鮮人がどういう人種であるかということがどんどん暴露されている。ヘイトスピーチどころの話ではないだろう。こういう情報は在日の連中も自分たちの国から隠されていて知らないのだ。これからも蛮行の数々があぶり出されてくるだろう。
まだ余命の作業に専念できる状況ではないので官邸メールの件は時間がかかる。ご了承いただきたい。現在、残69。

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
2015年は極限値という言葉通り、これから展開、実行段階に移行するための様々な仕掛けが撒かれた一年でした。
去年を表す漢字は「安」でしたか。安保法制や不安の安などとマスコミはいっていましたが、やはり私には明らかに安倍首相の「安」以外ありえないものでした。
年末のNHKの紅白も史上最低視聴率だったそうで、何をか言わんやですね。笑
さて、竹島有事が現実味を帯びている中で当時、日本漁民の皆さんがどんな目に会われたかを知っている日本人はまだまだ少ないのではないでしょうか。その一端でも知れば知る程、異常遺伝子民族に対する心構えが違ってくると思います。

第015回国会 水産・法務委員会連合審査会 第1号
昭和二十八年二月二十一日(土曜日)
この一月十八日の李承晩ラインの宣言と前後いたしまして、一月の十五日から四月六日までの間に十三隻の日本漁船が略奪行為、海賊的暴行にあっておるのであります。これは二十六年までの軍の船がつかまえたのと違いまして、まつたくの略奪行為であります。
ちょっと簡単に申し上げますと、一月十五日に第六、第七海洋丸、一月十九日には十七、十八日米丸、これはけが人が一人出ております。それから二月十三日に第一、第二日洋丸、二月十日に第一天祥丸、二月十一日に第三石宝丸、これは一人射撃を受けて死んでおります。それから三月には一二三明石丸、橘丸、四月に入ってから九三明石丸、第一浜吉丸というような船が、これが韓国の漁船か軍の関係の船か、そこがはっきりわかりませんが、とにかく軍人が乗つておつたらしいのでありますが、略奪行為を受けたのであります。

第15回国会「水産・法務・外務連合委員会」
私は第一大邦丸の船長浜行であります。私は昭和二十八年一月二十二日午前十時、僚船第二大邦丸と共に福岡を出航し、同日十八時頃二神、大島海より農林漁区二百七十五区に進路を定め、同月二十四日午前二時、推測二百七十五、推測左下附近に到着操業を開始しました。同附近で三日、更に推測二百八十三区西下附近で操業、二月八日推測二百八十四区西下附近で操業中午前七時本船の南西方より北上する漁船二隻あり、本船の西方約一マイル附近より順次進路を東に転じて、本船第一、第二大邦丸に接近して来ました。接近して来て日本語で「魚は獲れますか。」と話をした。そのまま行過ぎ、その附近で停止して操業状態にありました。当時船上には投網準備がしてあり船員のみしか見えませんでした。それで私たちはこれはこの附近で操業するもののみと思つて操業しておりましたが、丁度揚網時間が来たので第一、第二大邦丸を接近して第二大邦丸のワイヤロープをもらい、第一大邦丸は揚網作業にかかつたのであります。この接近した船は約五十五トンくらいの木船で、一見日本の漁船と何ら変るところはありませんでしたが、南鮮のマークが操舵室の横に書いてありました。そこで第一大邦丸が揚網中ワイヤロープ六百メートル、綱約二百メートル揚つたとき、右舷船尾距離三十メートル附近より突然発砲して来ましたので、その綱を切断して直ちに遁走に移りました。当時この昌運丸船上には兵隊らしき服を着た者が五、六名自動小銃で狙撃いたしておりましたが、我々は一心に遁走しましたが、八時十五分頃僚船第二大邦丸が拿捕されておりましたが、私たち第一大邦丸はそのまま逃走しておりましたが、操舵室附近に命中弾が余り烈しかつたので遁走を断念して停止しました。このときに昌運丸は本船に接近して来て「翰林に行け」と日本語で言いました。そのときに第二大邦丸は第二昌運丸に曳航されて翰林へそのあとは随航して行きました。そのときに操舵室の中央に休憩中でありました瀬戸漁撈長にこの旨を伝えましたが、瀬戸漁撈長は何も返事をしなかつたので、不審に思つてよく調べてみると、右後頭部に弾丸が命中しておりましたので、早速船医を呼び手当をしました。拿捕された時間は午前八時三十分頃で、これより、昌運号に守られながら済州島の翰林面という所に随行しました。時間は午前十一時三十分頃で、入港後早速憲兵に負傷者のある旨を伝え、病院の手配を依頼し、収容されましたのが翰林面の高医院という普通の民間家でありました。病室は勿論設備も全くなく、医師は診ただけでこれは駄目だと言つて何の手当もしてもらえなかつたので、我々船員は警察へ行つてこのことを言つて、軍病院かどこかに入院させることを依頼したのでありますが、警察は、我々は軍の命令によつて行動したのであって、我々に責任はないと拒絶されたので、憲兵隊に行つてこのことを言つて、病院に収容することを依頼しましたが、そのとき憲兵隊長は盲貫銃創だからとても駄目だと言って断られたのでありましたが、船員側から再三再四頼んだあげくやつと軍病院へ入院することが許可され、そのときに車は直ぐ来ますからというのでそのまま負傷者のところへ行き、軍病院へ行くまでの間でも死なないようにと思つて、医者にリンゲルを一本うっててくれることを要求しましたが、リンゲルは韓国では十一万円ぐらいしますので、医者は躊躇しましたが、我々は私物を売ることを約束してやつとリンゲル一本うっててもらいましたが、待てども車は遂に来なく、四日の二十三時リンゲル一本をうつたのみで負傷者はそのまま死亡しました。そしてその翌日負傷者を解剖しましたが、その解剖は死因の究明でなく、命中した弾の摘発によつて軍の弾であるか、或いは警察の弾であるかということを判明さすためでした。これは私が解剖した医師より直接聞いたのであります。結局解剖の結果摘発されたのは憲兵隊の弾であることが判明しました。そして翌日火葬いたしましたが、五日目より警察にいろいろ我々より頼んでみましたが、何の手配もされなかつたので、私たちは寝棺から荼毘に至るまで一切我々船員の手でいたしましたが、薪に至つては一把一万幾らもするので、私たちはそれを買う金も持つていなかつたので、私物を少々売つて少し薪を買いましたが、私物にも限度があり、火葬するだけの薪が集められなかつたので、足らない分は附近の松の枝などを折つて来て我々の手で火葬したのであります。場所は翰林より約二キロぐらい離れた野原で行いました。そして漁獲物は一、二大邦丸共合せて千六百五十箱約一万貫ぐらいありましたが、それは韓国の警察によつて没収されました。我々が入港当時、負傷者を病院に連れて行つた後、憲兵が武器の有無を理由に船内を調べましたときに、私物及び船備品の目ぼしい物はすべて持去られておりました。翰林に入港して七日より全員監禁状態にされ、場所は警察署の前の防空団詰所でありまして、広さは約四畳ぐらいの所に十八人監禁されました。食糧に一切支給されず船内食糧を差入れておりました。取調べの内容は本籍、現住所、氏名、宗教、思想、出航より拿捕されるまでの操業状況及び拿捕位置こういうものがありまして、拿捕位置については我々は翰林に入港した行程及び針路を逆算し、又操業当時の水深底質等で推測北緯三十三度三十三分、東経百二十五度五十五分でありましたが、当時昌運号船長の証言は翰林より九哩附近であると主張しましたが、私は昌運号のコンパスの時差及び速力などを鋭く指摘しますと、それでは君たちの位置と昌運号の位置の中間をとろうというので、翰林より約十三哩附近を拿捕位置として捺印させられました。十日二十時頃突然済州に連れて行くというので、私たちは私物を警察に預けて、中型自動車に乗せられましたが、そのとき船内に残つておりました者が何も遺骨を持つて来なかつたので、私たちはせめて遺骨だけでも我々と共に行動したいと言いますと、警察署長はもう時間がないから駄目だと言って断られましたので、我々は車に乗ることを強硬に反対しますと、それでは一人だけ残して残つたあとの者は船で明日済州へ回送するというので、やつと納得して十日に済州に送られました。済州では十日二十三時頃済州警察査察課第二係に渡されました。その日は食事を与えられずそのまま留置場に入れられました。留置場は約四畳ぐらいの間に便所があり、他の韓国人と一緒に入れられました。食事は粗麦を約一食一合くらい、一日二食で、おかずはほんだわらの塩もみでした。済州での取調べの当時、我々に最初は李ラインをどうして侵犯したというので、私たちは李ラインは韓国が一方的にきめた法律であって、何ら国際法上認められていないということを言いますと、次にそれではクラーク・ラインはどうして侵犯したかと言いますので、クラーク・ラインは設定された当時、業者側より陳情に来たときに、米国公使より作戦の妨害にならなければよいという説明がありましたので、私たちはそれを信用して入った、こういうことを言いますと、韓国の領海は島と島とを結んだ線より外三哩は領海であると言い張りましたが、島と島とを結んだ線が領海であるということを言っておりました。そうして私を調べるに当りましては、最初に瀬戸漁撈長はこういうことを言うたが、君の言うのは嘘だ。漁撈長のとは全然違っているというようなことを言つて、係官はメモをして来たものを持って来た。それは韓国字と日本字で書きましたので、調書にはどういうことを書いたか私たちにはわかりませんでしたが、あとでそれを読んで聞かせましたが、そのときに済州島の極く近距離まで接近したということが書いてありましたが、その場所は海図上においても実際に曳網される場所ではありません。海図を出して調べるときには丁字定規一つを持つて来て、たばこ及びマッチを以て測るような測り方をしておりました。留置場に入れられて食糧は我々は全然口に入れられぬような有様であったので、取調べの際に再三、再四私たちより外事主任に何とかしてくれるようにと頼みましたが、その後何とか考えましようというだけで、何ら待遇を改善されませんでした。そうして突然二月十五日午前七時頃外事主任より君たちは今日帰すというので、留置場から出されて、その日査察課に全員集り、中型ジープで水上署まで連れて行かれました。そのときに、査察課の課長が挨拶をしましたときに、死亡した人に対しては非常にすまない。今韓国は戦時下であるので、君たちに食糧をやりたくてもやれないのだからと、こういうことを言つておりまして、余り内地へ帰っても韓国のいわば官憲の悪口を言わないようにしてくれというような挨拶があって、午後一時に船体の受渡があり、十三日済州を出港して、十六日十七時半頃佐世保に入港しました。航行中は米国のフリゲート艦七十号より護衛されながら佐世保まで入港して、十九日佐世保を出港、二十日午前七時福岡に入港しました。大体私の証言はこのくらいです。

日韓漁業協議会の調べでは、1965年に日韓基本条約と漁業協定が締結されるまでに拿捕された日本の漁船は、328隻、抑留された船員は3929人、死傷者は44人に上りました。拘束、抑留された方々も酷い扱いを受けられたようです。
そして、拿捕された漁民は山口県が一番多かったそうです。
この事だけでも安倍首相の本気度と敵愾心を汲み取ることが出来ます。
いよいよ動き出す一年になりそうです。(けいちん)

テーマ
竹島切手の発行について
要望
竹島が日本の領土として正式に編入されたのは、1905(明治38)年2月22日の島根県告示による。竹島をめぐる日韓両国の対立は、韓国が1952年に所謂李承晩ラインで一方的に領有権を主張したのが発端である。韓国は現在も警備隊員を常駐させており、すでに紛争事案である。
2003年秋、韓国郵政庁は2004年の切手発行計画をまとめた。計画の中には、日韓で領有権を争っている竹島(韓国名・独島)のイラストをあしらった切手の発行が含まれていた。「竹島切手」は予定通り発行され、韓国各地に長蛇の列ができた。福田官房長官は記者会見で「何回も発行をとりやめるよう申し入れをしてきたにもかかわらず、韓国が発行したことは極めて遺憾だ」と表明。郵政事業を所管する麻生総務相も「UPU憲章の精神に違反していることが一番問題だ」と強い不快感を示した。韓国は1954(昭和29)年と2002(平成14)年にも「竹島切手」を発行した。1954年の発行の際には日本政府は直ちにUPUに問題提起し、「二国間の紛争となるようなデザインはUPUの精神にそぐわない」との決議が採択されたが、何の対抗措置もとられなかった。憲章順守の精神も良いが、全く遵法意識のない相手に対しては意味のないものである。
以上の理由から、日本国として速やかに竹島切手を発行すべきである。早急な対応を要望する。 (けいちん)

.....拓殖大学大学院特任教授の武貞秀士氏に、お話を伺った。
武貞教授「日本は、竹島を日本の固有の領土だと考えていますし、今まで出てきた歴史的な資料はすべて、竹島が島根県の島であることを証明するものです。韓国自身も、李承晩(韓国建国時の初代の大統領)時代に、1951年9月のサンフランシスコ講和条約会議に出席することを要求しました。大韓民国は35年間日本に統治されたという苦しみがあるので韓国を戦勝国のリストに加えてほしいーという主張をしたのです。そのときに、韓国は、アメリカの国務長官に対して竹島と対馬を韓国領にしてほしいという申し入れをしました。アメリカに拒否されましたが。
つまり1948年の韓国建国時から1951年のサンフランシスコ講和条約まで、韓国は『竹島は韓国領ではないし、実効支配もしていない』と思っていたわけです。韓国が軍事力をもって竹島を占領したのは、朝鮮戦争時です。国連軍が竹島を警備していましたが、朝鮮戦争のときに警備が手薄になって、そこへ韓国軍が入り、実効支配が始まったわけです。韓国の人たちは本音を言えば、竹島は韓国領でないことはご存知なのです。しかし、日韓の間の感情のすれ違いがからみ、竹島については日本と韓国の考えが一致しないという説明になっています。
日本は一貫して竹島を日本領だと主張してきました。日本の方からこの問題に対して新しいアクションを起こすとなると、紛争という形になる可能性もあります。これは日本としては避けたいところです。ですから日本の方からアクションを起こすということは、まずないでしょう。
ただ野田政権時に李明博大統領が竹島に上陸したことを受け、日本政府は数ヶ月かけてハーグの国際司法裁判所に、竹島の日本の領有権を確認する、国際司法裁判の訴訟手続きの書類を作成しました。しかしこれについては韓国側が、訴訟されても受け入れないーと主張しています。裁判が始まらないとわかっている書類を、あえてオランダに送付して更に日韓関係を悪くする必要もないだろうということで、今、書類は外務省の金庫の中に眠っています。韓国が、他の色々な分野で日本に対して誠意のある姿勢を示さない、という事情が重なっていけば、日本は国際司法裁判所に書類を提出することになるでしょう。」聞き手:徳山あすか
スプートニク  2015年11月06日 19:17
http://jp.sputniknews.com/opinion/20151106/1129729.html